Welcome to Fujigaoka Catholic Church!
先月の続きです。「神の恵みの支配」の到来を告げるイエスの宣教活動は、病に苦しむ人々の治癒から始められました。イエスはまた、貧困にあえぐ人々を深く憐れみ、彼らに救いへの希望と生きる勇気を与えました。イエスの時代のユダヤ教においては、神殿に詣でて生贄をささげることと、厳しい律法を守ることは、当然の義務とされていました。しかし、人口の大部分を占める貧しい人々は、日々食べていくだけで精一杯で、律法を守ることも、神殿に生贄をささげることもできず、支配層からは「塵の民」とさげすまれて呼ばれていました。
『マタイ福音書』9章36節では、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、(イエスが)深く憐れまれた」と書かれています。イエスはこのような貧しく、虐げられた人々をこそ招くのです。イエスの山上の垂訓の中には「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という有名な言葉があります。「心の貧しい人」と訳されている言葉は、聖書本来の記述に立ち帰ってみると、「『プネウマ』つまり『神の息吹』に欠乏していると決めつけられている人」という意味です。この言葉に込められたイエスの意図は、「神の息吹を受けていない」とバカにされている貧しい人たちこそが、神の恵みを受けることができる、という宣言なのです。
またイエスは「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(『マタイ福音書』11章28・29節)と言います。イエスは「律法主義の拘束」と対比して「わたしの軛」というのですが、その意味は何でしょうか。それはイエスと同じように「全能の父なる神」を愛し、その導きに完全に信頼し、その恵みを得て本当に謙虚になり、「隣人を自分と同じように愛する」生き方を生き通す、ということではないでしょうか。
キリストの教会は、社会に対して開かれた共同体です。より多くの方々が、私たちのカトリック藤が丘教会の門を叩かれることを、期待しております。興味を持たれた方は、ぜひ日曜日のミサを覗きにいらして下さい。お待ちしています。
主日のミサ | 土曜日 Sat | 17:00 |
日曜日 Sun | 9:30 |
平日ミサの日時につきましては教会事務所までお問い合わせ下さい。
所在地
Address
東急田園都市線「藤が丘」駅下車、徒歩約7分 横浜市青葉区柿の木台1-2
<お問合せ> 教会事務所 (045)973-4100 FAX(045)979-0506
「神の支配の到来」を福音(良き報せ)として告げたイエスは、それを説きながら、独自の行動をもってパレスチナ各地を弟子たちと共に旅しました。今月は、イエスの行動の特徴の一つである「病気の治癒」について見てみましょう。
イエスの時代、イスラエルの社会では、人が災害に遭ったり病気に罹ったりすると、その不幸はその人が犯した罪に対して下された神の罰だと考えられていました。そのため、そのような不幸に見舞われた人々は、生きる希望も見いだせない悲惨な状況に追いやられていました。イエスは、そうした人々を励まして、神の慈しみに信頼して生きるよう導いたのです。
たとえば「マルコ福音書」2章1~12節には、イエスが入っていった家の天井から、中風に苦しんで寝込んでいる男を仲間たちが床のまま吊り下ろした、という出来事が記されています。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は許される」と言われました。男は急に元気になって立ち上がり、イエスに命令されたとおり、床を担いで出ていきました。また、「マルコ福音書」5章25~34節には、長年重い病に苦しんできた女が、群衆にもまれながら必死になってイエスの衣服に触れて、ついに治ったと感じた話が語られています。イエスは自分に触れた女を見つけて、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と優しく言葉をかけます。
苦しむ人々の病を治してあげることは、神の力を示すすばらしい手段であったにちがいありません。しかし、イエスにとっては、このような奇跡的な治癒はもっと大きな意味を持っていました。罪びとの烙印を押された人々が、神の慈しみを体験し、神を信頼して感謝のうちに自信をもってしっかりと生きていくこと、これこそがイエス・キリストの願いだったのです。この続きは次回に回します。
キリストの教会は、社会に対して開かれた共同体です。より多くの方々が、私たちのカトリック藤が丘教会の門を叩かれることを、期待しております。興味を持たれた方は、ぜひ日曜日のミサを覗きにいらして下さい。お待ちしています。