巻頭言2021年5月

気にかけてたいせつにするということ

カトリック藤が丘教会主任司祭

新約聖書を開くと、たびたび「愛」という言葉が見られます。今年の復活節第6主日に読まれるヨハネによる福音書にも、イエスが弟子たちに掟として「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書15・12)と話されています。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(ヨハネによる福音書15・9〜10)

キリスト教が「愛の宗教」と言われるのも、聖書には「愛」という言葉が書かれ、ミサの初めでも「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。」と司祭があいさつをするように、「愛すること」が求められているからです。しかし、この「愛」という表現は、単に相手を好きという「愛情」や一緒に過ごしていたいという「欲求」のことを示しているのではありません。

だからこそ、日本にキリスト教が伝えられた当時の人たちは、「愛」という言葉を使いませんでした。神さまにとってたいせつな存在であるわたしたちのことを、そして神さまからもたらされるいつくしみと恵みのことを、「デウスのごたいせつ」と表現して、デウス(Deus=神、ラテン語)が与えてくださった「たいせつなもの」として扱ってきました。神さまがわたしたちに無償でそうしてくださるのだから、わたしたちもお互いをたいせつにしなさい。これが今日の聖書で表現されている「愛」です。

相手をたいせつにするためには、相手のことを気にかけることがなければ実現することがありません。お互いに無関心であっては、たいせつにしあう関係は作ることができないのです。イエスが伝える掟としての「愛」は、「互いを気にかけてたいせつにするということを、必ず守りなさい」ということ。わたしたち一人ひとりに「わたしが天におられる父の掟を守って、お互いに気にかけてたいせつにしているのであるから、あなたたちも同じようにしなさい」と求めておられます。

わたしたち一人ひとりはいつも、神さまと共にたいせつにし合う深い交わりへと招かれています。神さまからいただいたものをただ受け取るだけでよいのでしょうか? いただいたものをお互いに共有しあい、さらにそれを伝えていくこと。これは一朝一夕に実現することは難しいことかもしれません。まずは神さまと出会い、神さまとの深い交わりのうちに、お互いを気にかけたいせつにしていくことができるよう祈り求めていきたいと思います。

キリストの教会は社会に開かれた共同体です。より多くの人々がわたしたちのカトリック藤が丘教会の扉をたたかれることをお待ちしております。興味を持たれた方は是非日曜日のミサにいらして下さい。

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