巻頭言2021年3月

一粒の麦は、より多くの大切な麦を稔らせる

カトリック藤が丘教会主任司祭

4月4日の復活祭に向けて、神さまへと立ち返る回心の期間を過ごしているわたしたちですが、今年の四旬節の後半の福音書朗読は、イエスがご受難に向けてエルサレムへと歩むなかで弟子たちに伝えたことが語られます。

イエスは、ご自分がこれから十字架上の死を迎える時期が訪れることを悟り、弟子たちにご自分のことを麦にたとえて話されました。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネによる福音書12・24〜25)

イエスは、麦畑という世界の中で、その世界の一地域の麦穂の中の一粒の麦として生まれ、麦穂の人たちとともに成長して、その稔りの時期を迎えました。その稔った麦穂から麦がこぼれ落ちるのは、その麦穂の終わり「死」であることは疑いようもありません。しかし、その死は、新たな多くのいのちを生かすことになります。

麦粒は自分を残すのではなく、自分が消えることによって多くの稔りにつなげていきます。これが神さまのいのちへの働きのうちに起こることです。わたしたちのいのちは、ただ神さまによって「生かされている」ことに留まるのではなく、「与えるいのち」へ連なっていくことにほかなりません。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。わたしのいるところに、わたしに仕えるものもいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネによる福音書12・26)

わたしたちが、イエスの十字架上の死という「受難」と、その死から「復活」されたという過ぎ越しを復活祭で祝うのは、イエスを通して神さまの思いが弟子たちに伝えられたように、その思いはイエスの弟子たちから新たな弟子たちへと世代を越えてわたしたちへと伝えられてきたからです。

イエスと共に歩もうとするわたしたちに、イエスを通して神さまの思いが注がれ続けています。だからこそ、イエスとともに歩もうとする人のところに、イエスはともにおられ、イエスを通して神さまはその人を大切にされます。一人ひとりが大切な存在なのだという神さまのいつくしみに感謝しながら、新たな気持ちで歩み始めるご復活祭を準備したいと思います。

キリストの教会は社会に開かれた共同体です。より多くの人々がわたしたちのカトリック藤が丘教会の扉をたたかれることをお待ちしております。興味を持たれた方は是非日曜日のミサにいらして下さい。

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