巻頭言2021年7月
今を生きる
カトリック藤が丘教会主任司祭
この一年何といってもコロナウイルスに振り回され、今まで当たり前と思っていたことがそのままできなくなり、色々なことに新しいやり方が取り入れられ、苦労して慣れる必要が多々生じてきました。現在ではコロナ感染防止のためワクチンの接種が行われるようになりましたが、様々な混乱が報道されています。急に新しいことに取り組むことは混乱の原因になります。今まで体験したことがない取り組みに関してはなおさらのことです。
私たちは時間の観念として、過去・現在・未来という観念を持っているのですが、過去はすでに過ぎ去って戻ることはできません。未来は未定で、今をどのように生きるかにかかっています。過去にこだわりすぎて、変化に追いつけず、今を有意義に生きることができない人も大勢いるでしょう。戸惑いと不安の中で失望と諦めに心が支配されて元気が出ず、生き生きとした気持ちが持てない方々もたくさんいるでしょう。長い間我慢を強いられ、鬱憤晴らしをして他人や社会に迷惑をかけてしまうこともあるかもしれません。
キリスト者として今をどう生きるか…。それは私たち一人ひとりの課題です。真に生きることとは何かという大切な課題を提示されているといってもいいでしょう。死をもたらすコロナによって、生きることの意味をもう一度問い直すように呼びかけられているのです。
ただ生きていること…。存在すること自体に意味があるのは確かです。存在する限り神がそれを望んでいるのですから…。しかし、私たち人間は生きがいを求める存在です。「何のために生きているのか…」とその目的を問う存在なのです。
ヨハネの黙示録のなかで、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」(黙示録1章8節)と主は告げています。
「人間の存在は神によってはじまり、生きる目的は神である」と言っているのです。そのため、神は私たちに物心両面に渡って日々の糧を与えてくださるのです。体のためばかりでなく、イエスさまは神のいのち、霊的ないのちで私たちを満たすために救い主としてその御業を成し遂げられました。今、私たちが生きるのは主のためであり、主と共に生きることこそ真に生きることなのです。それを私たちは忘れてはなりません。「天に宝を積むように」、「まず神の国とその義を求めなさい」(マタイ6章)とも教えておられます。今を生きるため、まず神のみ旨を知ることが必要なのです。
この世に生きる私たちは過去へのこだわりにがんじがらめになって、今を十全に生きることに困難を覚えます。救いは「すべてのこだわり」を捨て、神に、すなわち主イエスに聞き従うことによってもたらされます。それは、主の愛を信じる信仰によって可能になるのです。今を生きるため、主の愛を確信し、主のみ旨を知り、行うことが求められています。主の御前にあって今を大切に生きなければすべてむなしく無為に過ぎ去っていきます。主は今もいつも生きておられる主であることを悟ることができますように…。
キリストの教会は社会に開かれた共同体です。より多くの人々がわたしたちのカトリック藤が丘教会の扉をたたかれることをお待ちしております。興味を持たれた方は是非日曜日のミサにいらして下さい。