巻頭言2021年1月

神さまからのよき知らせを受け取る

カトリック藤が丘教会主任司祭

今年は1月1日が金曜日。12月25日の主のご降誕以降、そのご降誕を祝う降誕節は、イエスがこの世に生まれたことが知られた「主の公現」を祝って終わります。今年の主の公現は、1月3日。ちょっと短めの降誕節となりました。

主の公現の翌週からは、カトリックの典礼歴は「年間」と呼ばれる期間に入ります。年間は、イエスが神さまの福音を伝え始める公生活に入る最初の出来事として、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた「主の洗礼」の祝日から始まります。その後の福音書朗読は、イエスが洗礼を受けた後に公生活に入り、弟子たちを選ばれるところから読まれていきます。イエスの公生活は30歳のころからと言われていますが、マルコによる福音書には次のように書かれています。

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコによる福音書1・14〜15)

福音記者のマルコが、その福音書でもっとも伝えたいテーマは、『神の子イエス・キリストの福音の初め。』と福音書冒頭に記したように、イエスが神の子として、キリスト(油注がれたもの)として神さまの福音を伝えていったということでした。マルコによる福音書は、4つある福音書でもっとも短いものですが、マルコが本当に伝えたいことは、すべての人びとにもたらされた「神さまからの福音」です。それでは、「福音」とは何でしょうか。福音とは、「良き知らせ」のことです。イエスが最初のメッセージとして人びとに伝えたのは、神さまからの良き知らせ、良き便りを信じなさいということでした。

神さまとの約束である律法を厳格に守って生活し続けることが神さまから認められると信じられていた当時のユダヤ社会において、律法学者や祭司たちのようには律法を厳格に守ることなどできない多くの人にとっては、神さまは近づくことなどできない、遠い遠い存在であったのかもしれません。イエスは、神さまが限られた人のためではなく、すべての人のために来られたという最初の良き知らせを、「神の国が近づいた」と表現しました。悔い改めるということは、どうでもよいという投げやりな生活から、神さまを中心とした生活に戻りなさいということ。良き知らせは、神さまとともに歩む最初の一歩でもありました。

神さまが遠い遠い存在と感じられるのは、ユダヤ社会に限ったことではありません。わたしたちも、たいへん困難な状況のなか生活を続けています。時には「神も仏もあるものか」と自分を投げ出したくなるような場面にあって、いま一度、イエスが最初に伝えた「神の国は近づいた。福音を信じなさい」という力強い言葉に立ち止まり、振り返って、ともに歩んでくださる神さまの良き知らせを受け取りたいと思います。

キリストの教会は社会に開かれた共同体です。より多くの人々がわたしたちのカトリック藤が丘教会の扉をたたかれることをお待ちしております。興味を持たれた方は是非日曜日のミサにいらして下さい。

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